小松帯刀 とは
小松帯刀(こまつ たてわき)(養子前:肝付尚五郎)
天保6年10月14日〜明治3年7月20日
(1835〜1870) 明治維新の立役者
“小松帯刀”幼名‘肝付尚五郎’喜入領主・肝付兼善を父とし3番目の子として生まれました。母は島津久貫の娘。尚五郎が15歳の頃、吉利藩主の名門・小松清猷(こまつ きよみち)から儒学を学びました。のちに小松清猷は薩摩を後にし琉球の防衛に務めますが、病に臥せ小松清猷は琉球で27歳で急死してしまいます。
死亡した小松清猷に子がいない事から、23歳のとき吉利領主・名門・小松家の養子として家督を継ぐよう、薩摩藩主・島津斉彬に薦められます。小松家の家名を絶やさず、それまで尽くしてくれた恩に報いるため残された妹・千賀(お近)の将来も案じました。肝付尚五郎なら薩摩藩士として力量手腕を揮い力を発揮できると考え、島津斉彬の薦めに応じて肝付尚五郎は、小松清猷の妹・千賀(お近)と結婚し、小松家の家督を継ぎのち‘小松尚五郎’改め“小松帯刀清廉”の名をいただきました。
その後、薩摩藩主・島津久光に手腕力量を認められ、側近となると大久保利通らと共に薩摩藩の藩政改革に取り組み、産業、通商を更に盛んにし、琉球・清国などと交易することで、藩の財政を豊かにし、留学生を派遣するなど教育や、軍の近代化に惜しげもなく藩の財政を投じました。その藩政改革が認められ、薩摩藩家老(側詰兼家老)になります。
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小松帯刀家老後
薩摩藩家老になった小松帯刀は、多くを京で過し、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。主に外交で手腕を発揮します。京都二本松の小松邸では重要な秘密会議が多数行われ、坂本龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と、木戸孝允の長州藩が会談、薩長同盟も小松邸で締結されました。そして、京では、芸技、学問にも優れ和歌の道にも秀でた京都祇園の名妓と言われる琴仙子(琴子)を小松帯刀は側室にしました、
坂本龍馬は大政奉還を前に新政府の人事構想が話題になったとき、小松帯刀を高く評価し人事に相応しいとして推薦しました。一番目に小松刀帯、二番目が西郷隆盛、三番目は大久保利通、四番目は木戸孝允、五番目は広沢兵助、六.後藤象二郎、七.横井小楠、八.長岡良之助、九.三岡八郎の名をあげました。
1868年、明治維新政府が発足する際、小松帯刀も重要な官職に就任しました、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職が作られ、小松帯刀は参与に任じられました。その三職は明治政府の中央政治機構の重要な官職でした。
小松帯刀は通風や糖尿病とも言われ病気治療の甲斐も無く大阪で死去しました、明治3年 享年36歳。政治分野の才能があり、友情も厚く、身分の上下なく誰にでも分け隔てなく接し、寛容で雄弁、明快な人柄で、誰からも人望が厚かった小松帯刀。薩摩藩家老に28歳でなり、明治時代で活躍するも余りにも早い人生を駆け抜けて逝きました。
坂本龍馬・西郷隆盛・大久保利通のような非業の死で幕を閉じ世に語られました、小松帯刀も病死でなければ少しは違っていたのかも知れません。しかし、西郷・大久保の働きは小松帯刀の存在を抜きにしては世に語れませんね。